光心寺は、義民堀越三右衛門、三木市右衛門の霊を弔うために建立されました。
江戸幕府四代将軍家綱公の世、寛文年間は凶作が続いて村人の困窮は甚だしかったのです。然るに、時の地頭倉橋内匠は苛酷なる重税を取り立て、特に小串、黒熊、白石、三ツ木の四ヶ村がその極に達し、同胞相擁して死を待つ有様でした。
緑埜村の名主堀越三右衛門は、この窮状を救うべく地頭所に減租を哀願したが聞き入れられず、ますます重税を課せられました。三右衛門は、死をもってこの危機を救おうと妻子に別れを告げ、江戸の幕府へ直訴。もとより直訴は法度なる故に捕らえられ、小串松原において磔の刑に処せられました。時は寛文7年(1667年)10月11日でした。なお更に一族の根をも絶たんとして幼児を捕らえ、長男は村人に匿われて難を逃れましたが、次男、三男はその三日後に斬殺されました。
地頭倉橋は、少しも反省の色もなく増税を加えたため、黒熊村の三木右衛門は、三右衛門の志を継ぎ、また直訴を企てたが探知されて獄舎に繋がること8年、遂に国払いの刑に処せられました。元禄12年(1699年)10月23日没と伝えられます。
この両氏の犠牲によって、寛文8年(1668年)倉橋内匠は改易となりました。村人の喜びは限りなく、これ偏に両氏の恩徳の賜と三右衛門が処刑された跡に、この両義民の霊を弔うため四ヶ村および近郷の人々の力によって光心寺が建立されました。それ以後毎年この霊を弔うため回向法会を厳修しています。